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貧乏

「貧乏てのは、するもんじゃねぇ。たしなむもんです」

古今亭志ん生

 

志ん生の後に志ん生なしとまで言われた5代目古今亭志ん生の落語は、途中からとんでもない方向に発展したり、初めと終わりでは全く別の話しになることが多々あったそうです。

名横綱・双葉山と飲み比べをしたほど酒好きだった志ん生は、酔っぱらって高座で寝てしまったこともありましたが、帰る客は一人もいなかったくらい多くの落語ファンに愛されていた落語家でした。

 

明治23年東京の神田で生まれた志ん生は、幼いころから手が付けられない子供で、10歳になるかならない頃から酒・博打を覚え小学校3年で退学。
大いに親孝行をして、蔵の一つでも建てて欲しいという願いを込めて「孝蔵」と名付けられた志ん生でしたが、仕方なく奉公に出された奉公先でも悪癖は治らず職を転々とする日々が続生きます。

唯一、父親の言うことを聞いて連れだって行ったのが寄せでした。

覚えた話しを仕事中に奉公仲間に聞かせ、殆ど仕事をしていなかったとか。

ある時、奉公先に出入りしている人力車の車夫に「そんなに噺が好きなら、噺家になっちまいな」とけしかけられ、二代目三遊亭小円朝に弟子入り。

 

志ん生はお金が入ると道楽に費やしていましたが、落語の本を買ったり、踊りの稽古に通うといったこともちゃんとしていたそうです。

しかし、結婚後の志ん生の家庭は常に貧乏にさらされ、家族は原っぱの草に塩をかけて食べるような状態だったそうです。

 

昭和16年太平洋戦争が勃発し、陸軍省から満州慰問団の話が舞い込みます。
落語が思うようにできなくなり、好きなお酒も手に入りにくくなったこともあり、志ん生は家族の反対を押し切り満州に渡ります。

そして、慰問先でお笑いをやり街へ戻っては酒を飲む生活が続きます。

しかし、敗戦後日本へ帰る船もなく当てのない生活をする中で、いつ死ぬかもしれないという人々の前で、一世一代の噺をすると、皆涙を流して聞いたそうです。

芸能の世界には化けるという言葉があるように、満州帰りの志ん生はまさに化け、一躍人気者になりました。

 

長年の貧乏暮らしが、長屋ものに活かされ、遊郭で遊んだ経験が廓噺にも活き、欠点だらけだった志ん生の生き様がいつしか独特の芸風となったのです。

お金がなかったので、どこへ行くにも徒歩です。これが、貴重な稽古の時間となっていたそうです。

 

後に「びんぼう自慢」という本を書いた時に「(お金に不自由しなくなった)今よりも楽しかった」と語っています。

貧乏を恥じることなく、己の道を生きた志ん生のような生き方は、中々真似できるものではありませんが、素晴らしい生き方ですね。

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