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芸術に進歩はない。あるのは、変化があるだけだ。 パブロ・ピカソ
「父が居なければ、現代アートはもとよりロックンロールでさえも存在しなかったでしょう」と、ピカソの息子クロード・ピカソは語っています。
当初、ピカソの型破りな行動は、理解されていませんでした。
天才ピカソの象徴であるキュービズムは、当初歓迎されなかったため、その画法は封印されました。
しかし、20年後キュービズムは名画「ゲルニカ」で復活します。
1881年10月25日スペインのマラガで生まれたピカソは、画家だった父親の影響で言葉よりも先に絵を描いたそうです。
14歳で名門美術学校に進学した時、同じ美術学校で教師をしていた父親は、ピカソの才能にショックを受け画家としての自分の限界に気付き、自ら筆を折り教えることだけに専念したそうです。
16歳にして絵のテクニックを全てマスターしていたピカソにとって学ぶことは何もありませんでした。
そこで、19歳でパリに渡りアトリエを借ります。
青の時代は、友人の死、貧困などピカソの苦悩が伺える時代です。
そして、バラ色の時代は恋愛により今までの哀しみを乗り越え、抒情的な作風に変化。
ピカソの友人は、ピカソがやって来ると慌ててキャンバスを隠したと言われています。
何故なら、ピカソは人の作品からインスピレーションをを得てそれ以上の作品を作るのが上手かったからです。
富と名声を得ていた50代の頃、ピカソは2年程創作活動から離れていました。
しかし、1937年4月26日スペイン内戦により、スペイン北部のゲルカが爆撃を受け、1,600人以上が死傷。
このニュースは芸術家ピカソの魂に火を付け、幅7.8m、高さ3.5mの大作に挑み始めることになったのです。
制作開始からわずか1ヶ月で絵は完成。
キュービズムがなければ、ゲルニカを描くことは不可能だったと言われているように、ピカソは自分の持ちうる才能を駆使して、ゲルカで起きた悲劇を伝えようとしたのです。
かつてキュービズムを否定していた芸術家でさえも、ゲルニカの素晴らしさを認めざるを得ませんでした。
その後、ナチス軍から「ゲルニカを描いたのはあなたですか?」と聞かれた時ピカソは「そうだ、だが、あの絵を描かせたのは君たちだ」と答えたそうです。
ゲルニカはピカソにとって最も大切な存在となり、ピカソ生誕100年の1981年9月にゲルニカはスペインに渡りました。
パリに渡ってから故郷スペインに帰ることができなかったピカソでしたが、大きな変化を恐れず創作し続けた姿勢は心に響くものがありますね。
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